Clinical Question:行動経済学と意思決定支援
■ 症例から考えた意思決定支援
50代女性で十二指腸乳頭部がんで大学病院で根治的治療を受けていた方が、オピオイド導入とADL低下をきっかけに当院へ紹介となりました。外来や訪問診療を続ける中でも、「がんを治して、今後も生きていきたい」「母親と旅行に行きたい」「仕事に復帰したらゆっくり仕事をしたい」と常に前を向いていました。最終的には大学病院への入院を経て緩和ケア病棟に移り、数日でお亡くなりになりました。

その後、当院SWがグリーフケアの訪問でお母様からお話を伺ってくれました。お母様は「緩和ケア病棟では医師と毎回話せなかった」「イメージしていたものとは違った」「在宅でもっと一緒にいられたのではないか」と話されており、どこかもやもやした思いを抱えていたようでした。患者さん・家族・私たちの思いがすれ違っていくこの構造を、行動経済学という視点で考えてみたいと思います。
■ 行動経済学とは
行動経済学は、「人は絶えず合理的な選択をするわけではない」という前提に立ち、心理的な要素を踏まえて人々の行動を分析する学問です。医療現場では健康診断の受診促進などの健康行動や、医療者と患者さんの間のコミュニケーションエラーの解消に活用されています。意思決定支援の場面では、共同意思決定(SDM)が重視されていますが、十分な説明をしてもなお「なぜ分かってくれないのか」「エビデンスのある治療でなくなぜ民間療法にこだわるのか」「効果が不明だが高額な自費医療を選んでしまうのか。」と感じるケースがよくあると思います。
■ 患者さんと医療者で見えている世界が違う
なぜ患者さんと医療者がすれ違うのかということを考えていきます。がん治療を受けている患者さんを、森の中に立っている人に例えてみます。患者さんが見えているのは目の前の地上の景色で、知りたいのは次にどちらへ進めばいいかということです。一方で医療者は森を上空から俯瞰できる立場にいて、「こちらへ進めば出口がある」と伝えようとします。

しかし患者さんは、目の前の道が険しければその道を進もうとはしません。医療者はこれまでの経験・知識に基づいてある程度望ましい選択肢が見えていますが、患者さんは今抱えている不安や疑問を解消したいと思っています。見えている景色が違うことが、すれ違いの根本にあります。この違いを認知的要因と言います。
医療者側の認知的要因としては、患者さんが合理的な意思決定ができる存在とみなすことが挙げられます。ただ行動経済学では、人間は直感的な反応や非合理的な判断をすることも多いことがわかっています。このギャップにより、医療者と患者さんの間でのずれが生じると言われています。(※大阪大学大学院 人間科学研究科 准教授 平井啓先生 ご監修)
■ 人間は損失を回避したいと考えて行動する。
「①確実に1万円をもらう」
「②コインを投げて表が出たら2万円をもらい、裏が出たらなにももらわない」
この2択があった場合、皆さんはどちらを選ぶでしょうか。①の、確実に1万円を獲得する選択肢を選ぶ方が多いのではないかと思います。
「③確実に1万円を支払う」
「④コインを投げて表が出たら2万円を支払い、裏が出たらなにも支払わない」
この2択であった場合はいかがでしょうか。④を選択する方が多いのではないでしょうか。
合理的に考えた場合、利得の割合は同じですが人間は損失を回避したいという傾向が強いため、上記の様な結果になると言われています。特徴的なのは、損得の大きさが同じ1万円であったとしても、「1万円得する」価値よりも、「1万円損する」価値をより大きく捉え、その差は約2.5倍にもなると言われています。このことから、人はマイナスをより大きく感じてしまう傾向にあると言われています。
これを患者さんの状況に置き換えて考えてみると、生き続けることが目的の場合、「積極的な治療の中止/緩和ケアの選択」は、患者さんは損失として捉えることが多いです。その結果、「少しでも望みがあるならば」という気持ちで積極的治療や自費診療などのリスク選好に繋がっていきます。
他にも、診療の場でよく見るバイアスは様々です。
・現状維持バイアス:「今の状態を維持したい」を過剰に好む傾向
『まだ大丈夫だからこのままでいい』『薬は増やしたくない』『訪問は必要ない』
・サンクコストバイアス:過去に支払った費用や努力に大きな価値を感じる傾向
『ここまでやって来たのだから続けたい』
・現在バイアス(先延ばし):将来の利益より、今の快適さを優先する
『塩分制限よりも目の前のおいしい食事』『つらい意思決定は先延ばしにしたい』
・楽観バイアス:自分にとって都合の悪い事態は起こらないと考える傾向
『悪くなっても、また元気になる』『きっと治る』『自分は入院しない』
■ 希望(Hope)を支えながら、備えを一緒に伝えていく

まずは希望を壊さない、修正しないことが重要です。まずは患者さんの気持ちに共感し、「治療を目指したいお気持ちよくわかります。そのためにはまず体調を整えていきましょう」というような、共通目標を作るようにしていきます。
共感するだけでなく、患者さんの希望に寄り添いながら、同時に「こういうことも起こりうる」ということを一緒に伝えていく----その両方が必要です。ただし、これは短期間で成し遂げようとするのは難しく、時間をかけて信頼関係を築きながら行うものだと思います。また、これは医師だけが行う必要はなく、看護師やソーシャルワーカーなどチームで支えていくことが大切です。お母様の「在宅でもっと時間を過ごせたのでは」という言葉を受け止めることが、グリーフケアの出発点でもあり、私たちにできる関わりだと考えています。
■ おわりに
「なぜ分かってくれないのか」という感覚は、医療者として誰もが経験することだと思います。終末期は多くのバイアスが意思決定に影響し、楽観的観測やリスク選好が強まる傾向があります。時に非合理に見える希望も本人や家族にとっては大事な原動力になっていることもあります。
行動経済学の枠組みを使うことで、そのすれ違いを責任の問題としてではなく、人間の認知と感情の構造として理解することで、より良いコミュニケーションや治療選択ができるようになる可能性があると思っています。
ゆみのハートクリニック 院長
田中宏和



